大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和52年(お)6号 決定 1980年2月05日

主文

本件再審請求を棄却する。

理由

本件再審請求の趣意として、昭和五二年八月三〇日付弁護人青木英五郎ほか五七名の作成にかかる再審請求書、昭和五三年六月二九日付弁護人深田和之ほか一一名の作成にかかる「再審請求補充書―新証拠としての井野鑑定書について―」と題する書面、同日付弁護人松本健男ほか一二名の作成にかかる「再審請求補充書―新証拠としての宮川鑑定書、大野鑑定書及び磨野鑑定書について―」と題する書面、同日付弁護人藤田一良ほか一二名の作成にかかる「再審請求補充書新証拠としての生越鑑定書及び同補充鑑定書について」と題する書面、同年一〇月三一日付弁護人青木英五郎ほか一〇名の作成にかかる再審請求補充書、同日付弁護人中北龍太郎ほか一一名の作成にかかる「再審請求補充書―新証拠としての荻野鑑定書を中心として」と題する書面、同日付弁護人松本健男ほか九名の作成にかかる「再審請求補充書万年筆についての新証拠の意義」と題する書面、昭和五四年五月二三日付弁護人佐々木哲蔵ほか九名の作成にかかる「再審請求補充書脅迫状訂正日時に関する新証拠」と題する書面及び同年七月一四日付弁護人佐々木哲蔵ほか一〇名の作成にかかる「再審請求補充書一部新たな主張と新証拠について」と題する書面等においてそれぞれ主張されているところを総合し、その趣旨を要約すれば、確定判決が請求人(被告人)を本件強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄及び恐喝未遂の犯人と認めるべき証拠として掲げるもののうち、(一)請求人が石田養豚場から持ち出して本件死体を埋めるのに使用したとされるスコップは、新たな証拠である昭和五〇年八月二五日付生越忠の鑑定書及びその補充書並びに戸門クラの昭和三八年六月二〇日付検察官に対する供述調書により、これに付着していた土壌と死体埋没場所付近の土壌との性質が相違する点から、本件死体を埋めるのに使用されたものでないこと及び事件当夜右養豚場の犬がほえた事実がある点から、これを持ち出したのは請求人でないことが明らかにされ、(二)犯人が姿を現わしたとみられる佐野屋付近の畑地から採取された石膏型成足跡三個は、新たな証拠である昭和五〇年一二月一三目付井野博満の鑑定書、昭和五四年四月二〇日付渡辺毅及び同年六月一五日付吉村功の各意見書並びに深田和之の実験結果により、その大いさに違いがあつて固有の破損痕があらわれていない点で請求人方から押収された地下足袋によつて印象されたものでないことが判明し、(三)被害者方に届けられた脅迫状及び封筒に記載されている文字は、新たな証拠である昭和五〇年一二月一五日付大塩達一郎、昭和五一年一月一〇日付磨野久一、同月二〇日付宮川寅雄及び同年七月三一日付大野晋の各鑑定書並びに石川美智子、水村智恵子、樋口弓子、伊五沢マサ子及び小川京子の各昭和三八年七月一日付司法警察員に対する供述調書により、表出された字形が請求人の筆跡と異なること、その用字と請求人の書字能力との間に甚だしい隔たりがあること及び請求人が漢字を書き写したとされる雑誌「りぼんちやん」が当時請求人宅に存在しなかつたことがいずれも明らかにされて、請求人によつて書かれたものでないことが確認され、(四)本件犯行に使用された手拭一本は、新たな証拠である手拭一五四本、五十子貞作作成の便せんメモ四枚及び横田雄一の調査報告書により、事件の当時請求人がこれを入手しうる地位になかつたことが明白となり、(五)請求人の居宅で発見された万年筆は、新たな証拠である小谷野憲之助の昭和三八年一〇月三日付司法警察員に対する供述調書、同年八月一六日付及び同月三〇日付荏原秀介、同年九月九日付柏谷一彌の各鑑定書並びに被害者の当用日記、受験生合格手帳、学級日誌及びペン習字の浄書により、インクの色と性質が当時被害者の常用していたものと相違することが解明され、また、昭和五四年五月一〇日付内田雄造の意見書により、その押収手続の過程における疑惑がいよいよ深められた点から、事件の当時被害者の所持使用していた万年筆でないことが裏づけられ、かくして、確定判決の掲げるこれらの証拠は、いずれも請求人の有罪を認めるべき証拠としての価値を失うにいたつたものであり、また、確定判決の認定に沿う請求人の自白内容のうち、(六)本件被害者に対する殺害方法については、新たな証拠である昭和五〇年一二月一三日付上田政雄の鑑定書(補足説明書を含む。以下同じ。)並びに昭和五一年一二月一三日付青木利彦及び同月二七日付木村康の各意見書により、請求人が自白しているような扼殺ではなくて、軟性の索条物による絞殺であるとの結論がえられ、(七)本件被害者に対する姦淫行為の態様については、新たな証拠である右木村康の意見書及び昭和五四年五月二五日付謝国権の意見書により、請求人が自白しているように手掌で被害者の喉頭部を強圧しながら姦淫し、そのまま死亡にいたらせるということは、性科学的考察から不可能に近い行為であるうえに、本件の場合、暴力を伴わない自然的な性行為ののち、被害者が身づくろいをするだけの時間的余裕のあるものであつたことが推認され、(八)本件被害者の死体の処置については、新たな証拠である前記上田政雄の鑑定書、司法警察員大谷木豊次郎作成の昭和三八年七月五日付実況見分調書、昭和五三年一二月二四日付中山武敏の報告書及び昭和五四年五月二二日実施の木村康の報告書により、本件死体にみられた死斑発現の状態、その後頭部損傷と隠匿場所における血痕の不存在その他死体隠匿の場所、時間及び状況と死体の状態との間にみられる多くの矛盾点が指摘されて、本件死体が請求人の自白しているように長時間右芋穴に隠匿されていたことが否定され、また、新たな証拠である前記生越忠の鑑定書により、埋められていた本件死体の頭上部に発見された玉石が、自然状態では死体埋没場所及びその付近の土壌地層中には絶対に存在しないものであることが証明された結果、この玉石は本件の犯人が運んできたものに相違ないことになり、もし、請求人が本件の犯人であるならば、その自白中に当然この玉石に触れている部分があつて然るべきであるのに、その部分のないことが供述の不合理性として浮きぼりにされ、以上の諸点から確定判決が有罪の認定に欠くことのできない根拠としている請求人の自白は、その内容の重要な部分について客観的事実とそごすることが明らかとなり、さらに、(九)請求人が被害者の所持品を投棄した場所を示すためにみずから記載したものとしてその自白調書に添付されている各図面には、新たな証拠である昭和五〇年一二月二〇日付荻野晃也の鑑定書及び昭和五三年五月二三日付大野町子・中北龍太郎の報告書により、これまで看過されてきた新しい筆圧痕の存在することが発見されて、右各図面が取調官の誘導によつて作成されたものであることが暴露し、また、(一〇)請求人の捜査官に対する自白調書によれば、本件脅迫状の文面は昭和三八年四月二八日にあらかじめ作成して用意し、金員を持参すべき指定日として「4月28日」と記載しておいたものを、本件にさいし、その部分を塗消して「五月2日」と記入訂正したというのであり、以来請求人は一貫して右脅迫状の作成日及び訂正前の指定日が四月二八日である旨の自供を維持してきたものであるが、新たな証拠である昭和五四年五月一五日付串部宏之・北田忠義の意見書により、右塗消訂正以前の指定日の日付部分に「4月29日」と記載されていたことが判明し、右作成日と指定日とが同一の日である以上、その当日である昭和三八年四月二九日において請求人は、終日工事作業に従事していて、右のような脅迫状を作成する時間の余裕がなかつたところから、請求人がこれを作成した事実のないことが証明されるとともに、請求人が自白内容がすべて捜査官の誘導による虚偽架空のものであることが露呈するにいたつたのであり、かようにして叙上各問題点について掲記した新証拠は、その大半が原判決後被告事件が上告審に係属中発見され、職権発動を求めるため上告趣意書又はその補充書に添付して提出されたにもかかわらず、上告審においてこれに対する判断を拒否されたものであるから、なお新たな証拠としての取扱いを受けるのが相当というべく、また、その内容において、もしこれらが確定被告事件の審理中に提出されていたならば、請求人が本件犯人でないことを明らかにすることにより、確定判決の認定を覆えすに足りるものであるから、請求人を無罪とすべき明らかな証拠を新たに発見した場合として、刑訴法四三五条六号に基づき、右各新証拠を添えて本件再審の請求に及んだというものである。

そこで、確定被告事件の訴訟記録及び各証拠と本件再審請求書、前記各再審請求補充書等の各書面及びこれらとともに提出された各資料とを照合して、所論各事項を検討してみると、新たな証拠として所論の掲げる書類又は物件がいずれも確定判決後に作成又は発見されたものであつて、これらについては確定被告事件の第一審からその上告審までの審理において証拠調又は事実の取調が行われていないことは所論のとおりであるが、右各資料のうち、生越忠、井野博満、大塩達一郎、磨野久一、宮川寅雄、上田政雄及び荻野晃也の各鑑定書はいずれも昭和五一年一月二八日付上告意趣書に、大野晋の鑑定書は同年九月一七日付上告趣意書補充書に、小谷野憲之助の司法警察員に対する供述調書、昭和三八年八月一六日付荏原秀介の鑑定書、被害者の当用日記、受験生合格手帳、学級日誌及びペン習字の浄書はその写し又は写真が昭和五二年四月八日付上告趣意補充書に、生越忠の鑑定書はその写しが同月二六目付弁護人藤田一良ほか一名の上告趣意補充書に、五十子貞作作成の便せんメモ四枚はその写しが同日付弁護人山上益朗ほか五名の上告趣意補充書にそれぞれ添付され、司法警察員大谷木豊次郎作成の実況見分調書、戸門クラの検察官に対する供述調書、石川美智子、水村智恵子、樋口弓子、伊五沢マサ子及び小川京子の各司法警察員に対する供述調書は、それぞれその要旨が昭和五二年四月二六日付弁護人青木英五郎ほか一〇名の上告趣意補充書に引用され、また、青木利彦及び木村康の各意見書は付属書類として昭和五一年一二月二七日上告裁判所に提出されたものであることが、いずれも一件記録によつて明らかにされている。ところで、所論は、上告裁判所が同裁判所に提出された右各資料について証拠調又は事実の取調をしていないこと及びその決定の説示中に「訴訟記録並びに第一審及び原審裁判所が取調べた証拠に基づいて、原判決の事実認定の当否を調査した」とある点をとらえて、上告審においてこれらの資料に対する判断を拒否されたというのであるが、控訴及び上告各論旨の内容及び控訴審以来の審理の経過に徴すれば、これらの資料は、いずれも請求人が本件の犯人であるか否かの中心となる問題点にかかわるものとして上告裁判所に提出されたのであつて、単に上告趣意書等に添付又は付随して提出されたというだけでなく、その内容が右問題点について論じている上告論旨の構成のなかに組みこまれるかたちで上告裁判所に提示されていたものであることを各関係書類の記載から知ることができる。したがつて、上告裁判所としては、右のようにして提出された各資料そのものについて証拠調又は事実の取調を行うまでもなく、提起された論点との関係において右各資料の内容を必然的に了知していたことになるわけであり、また、その了知された資料の内容が、同裁判所の判断の過程で、必要に応じて検討の対象とされえたことも明らかというべきであつて、これらの諸点は、上告裁判所の裁判書が引用している上告趣意書等の書面に添付されている資料についてはもとより、それ以外の資料で右裁判が出されるまでに同裁判所に提出されたものについて同様に考えてよいことと思われる。そして、本案の上告裁判所は、刑訴法四〇五条所定の適法な上告理由にあたらない事項であつても、再審の要件にあたる事由をも含めて同法四一一条各号所定の事由の有無につき職権に基づく審査ができることはいうまでもないが、その職権発動の有無は上告趣意の中で主張されるなどして事案について提起された問題のその事案に対して有する重要性によつて決せられることになり、ひいては、その問題に関連して提出された資料についてどのような審査が行われるかの点も、右の問題の重要性からする職権発動の有無とその程度にかかつているものということができる。これを本件の場合についてみると、訴訟記録の示すとおり、被告人と犯人との同一性の点が最も重要な問題として各審級を通じて激しく争われ、前記のようにして上告裁判所に提出された資料も、その殆どすべてが窮極においてこの問題に帰一すべき論点にかかわるものであつて、しかも、上告裁判所の決定において、特に刑訴法四一一条による職権調査を行う旨の言明のもとに、上告趣意中に主張されている各論点についての審査の経過が克明に説示されているところからすれば、その説示の中で提出にかかる資料に触れている部分がなくても、右各論点について提出された関係資料が同裁判所の判断の過程で審査の対象とされていたことは、おのずから明白なことがらであると考えざるをえない。かようにして、右各資料の提出された上告裁判所において、これらに関する証拠調又は事実の取調の行われた事跡がみられなくても、右各資料の関連する論点及び問題の重要性とこれに対する第一審及び控訴裁判所の審理の経過並びにその論点及び問題に関する上告論旨の構成とこれに対する上告裁判所の判示の内容に照らして、上告裁判所がその判断の過程で右各資料の内容を了知し、これらについての審査を行つたうえで結論を導いているものとみなされる本件のような場合においては、右各資料は、確定判決が確定するより前にすでに本案裁判所の判断を経由したものとして、刑訴法四三五条六号にいわゆる新たに発見した証拠には該当しないものと認めるのが相当といわなければならない。なお、この点については、上告趣意書等に添付されて上告裁判所に提出されたにとどまる資料は、単に上告趣意の内容を理解させ又はこれをふえんするという以上の意味をもたせなかつたと理解する余地があること等を理由に、右上告裁判所への提出によつて前記法条にいわゆる新たに発見した証拠としての性格を失うものではないとした裁判例(札幌高等裁判所昭和四四年六月一八日決定参照)もみられるけれども、右のような資料を新たに発見した証拠と認めるかどうかは、その資料の関連する論点及び問題の重要性、審理の経過、上告論旨の構成、上告裁判所の判示内容等に徴し、それぞれの事案毎に考察されるべきことがらであるから、本件についてかかる取扱いを相当としえないことは前説示のとおりである。以上の意味において、本件再審請求に掲げられた新証拠とされる書類又は物件のうち、前摘記にかかる各資料は、すでに再審請求における内容的審査の対象となるべき適格を失うにいたつているものではあるが、なお、事案に鑑みてこれら各個の内容についても以下に検討を加えてみることとする。

前記論旨(一)の点について所論の掲げる生越忠の鑑定書及びその補充書は、請求人が石田養豚場から持ち出して被害者の死体を埋めるのに使用したとされる本件証拠物のスコップ一丁につき、本件との関連性を否定する資料として提出されたものであつて、右スコップに付着していた土壌と死体埋没場所付近の土壌との同一性に関して確定判決が採証している昭和三八年七月二〇日付星野正彦の鑑定書が示す鑑定の方法及び結論を批判し、星野鑑定は、土壌の比較検査にあたり、比重による比較検査、化学検査、器械分析、砂分の検査、粘土の検査、赤外吸収スペクトル測定及び熱灼減量測定の七項目にわたる検査をすべての検査資料について実施していない点で科学的に不十分であるばかりでなく、検査の結果から結論を導き出すまでの過程における測定値の比較や平均値の算出方法等にも妥当でない点があつて、その結論は正当性を欠くものであるとしている。右指摘にかかる星野鑑定において、資料の分量や状態からする制約のために、十分な検査が行われたといえない点については、すでに上告審の決定も承認しているところであるが、同決定にも説示されているとおり、右鑑定は、本来各土壌の成分の分析自体が目的でなく、本件スコップに付着していた土壌と死体埋没場所付近の土壌との類似性の有無に関する資料を求めるために行われたのであつて、期待されていた証明力に限度があつたものであり、また、確定判決も、この鑑定だけを唯一の資料として本件スコップを死体埋没の供用物件としているわけではなく、これを他の関係証拠と総合したうえで右の認定をするとともに、本件スコップを請求人が犯人であることを指向する証拠のひとつとみなしているにすぎない。したがつて、所論生越忠の鑑定は、かような総合認定の一資料である星野正彦の鑑定書について、一部その不備を指摘する意味はもちうるとしても、科学的に肯認された検査方法により比較対照の限度で右各土壌の間の類似性を判定した同鑑定書の結論を左右するに足りるものではなく、まして右総合認定にまで影響を与えるべき反証とみなすことはできない。

同論旨(一)の点について所論の掲げる戸門クラの検察官に対する供述調書は、請求人が前記スコップを石田養豚場から持ち出した点を否定する資料として提出されたものであつて、要するに、石田一義方豚舎のすぐ東側に居住する供述者が、事件当夜とされる昭和三八年五月一日の午後一〇時ころ豚舎につないである石田方の飼い犬のほえるのを聞いたという趣旨のもであるが、右は、単に当夜石田方の飼い犬がほえたという事実を示すにとどまり、仮りにその事実があつたとしても、何が原因で犬がほえたのか、また、そのことが本件スコップの持ち出しとどのように関連するのか等の諸点まで明らかにしているものではないから、結局、請求人が以前石田方に傭われていて、本件スコップを持ち出しやすい立場にあつたこと及び本件スコップと本件との関連性について疑義を挾むに足りる資料とは考えられない。

前記論旨(二)の点について所論の掲げる井野博満の鑑定書は、本件脅迫状の金員持参の指定場所である佐野屋付近の畑地から採取された石膏型成足跡三個が請求人方から押収された地下足袋によつて印象されたものでないことを裏づけるべき資料として提出され、右両者の同一性に関して確定判決が採証している関根正一・岸田政司の鑑定書に示された鑑定の方法及び結論を批判するものであつて、右石膏型成足跡と地下足袋との関係を検討するために後者によつて印象された対照足跡を作つてこれと前者とを比較する方法をとり、その比較にあたつて、各親指と踵との間、四本指側と踵との間、踵寄り左側の基準点から親指先端までの間及び同基準点から踵までの間の各最大長さをそれぞれ資料毎に計測し、これらの長さの平均値及び標準偏差を算出してこれを解析した結果、両者の間には高度の有意義が認められたとして、本件石膏型成足跡が押収にかかる地下足袋によつて印象された足跡と相違するとし、また、別の実験結果によつても、本件石膏型成足跡は押収にかかる地下足袋より大きい十文三分の地下足袋によつて印象されたとみるのが妥当である旨の見解を述べるものである。しかしながら、上告審の決定にも説示されているように、実際に人が地下足袋をはいて不規則な移動をした場合においては、一般的な数値にあらわしえない甲布部分の広がりや移行によるずれのあることを考慮すると、右の見解は本件について十分の具体性をもつものとはいいがたいうえに、右の検定は、対象資料における各部位の長さの計測値のみを基準として、専ら外縁の大いさの比較に終始し、各資料にみられる損傷の部位や破損の様相等に関する比較対照を度外視している点において一面的に過ぎるきらいのあることを否定できない。これに対して、関根正一・岸田政司の鑑定は、被疑者方から押収した地下足袋と前記現場から採取した三個の足跡とを比較対照するにあたり、足長及び足幅は勿論、底型の歪、横線模様、印象条件及び損傷特徴の細部まで克明に追究検査し、その結果として、三個の足跡のうち、一個は押収にかかる地下足袋の左足部分と同一種別で同一足長のものと認められ、他の一個はその右足部分によつて印象可能と認められるほか、残りの一個は、損傷の痕跡紋様等の一致から、その右足部分自体によつて印象されたものと認められる旨の結論を導いているものであり、殊に右損傷の痕跡紋様の比照において、基準点から破損特徴開始点までの距離及び角度の符号並びに痕跡形状の酷似性をその添付にかかる拡大写真によつて明確に実証している点等に照らすときには、その鑑定結果は、上告審の決定も説示しているように、客観性に裏づけられた信頼度の極めて高いものと考えられ、また、右各足跡に対応する地下足袋は十文三分の大いさに相当するとの意見も、請求人が押収の地下足袋を完全に着装したうえで歩行することができたとの右両名の鑑定における実験結果を動かしうるものではなく、かくして、所論井野鑑定書は、固有の特徴を主眼に異同を識別し、また、実験の結果を卒直に示している関根・岸田鑑定書に対して、いかなる点においても、その証明力を減殺するに足りる資料とは認められない。

前記論旨(三)の点について所論の掲げる大塩達一郎の鑑定書は、本件脅迫状の筆跡が請求人の筆跡と相違するとの点を立証すべき資料として提出されたものであつて、確定判決が認定の根拠としている関根政一・吉田一雄、長野勝弘及び高村巌の各鑑定書における鑑定方法を経験と勘にのみたよる非科学的なものとして批判するとともに、常同性と稀少性の概念を統計的数量として導入し、個別的形態の比較から文字形態の総体的整合性へ視点を移して筆跡の異同を判別すべきである旨を論ずる。そして、その鑑定方法は、ひらがな文字の高さと幅の比を個々の文字毎に求め、ひらがな全部について求められたこの数値に基づき、その平均値及び分散の状態を曲線で図示する操作を経て、比較すべき両資料における分散の状態を見たうえ、その間にみられる分散の違いを統計的検定法によつて検定し、両資料の分散比が一パーセントの有意水準以上で棄却されるならば、両資料の筆跡が同一であるとの判断は誤りとされるという段階をふんで進められるのであるが、右の方法により本件脅迫状、請求人の自筆にかかる脅迫状の写し及び昭和三八年五月二一日付上申書についてその筆跡の異同を検査したところ、「脅迫状と脅迫状の写し及び脅迫状と上申書の場合はいずれも高度の有意水準で棄却され、脅迫状の写しと上告書の場合は棄却されない。」との検査結果がえられたとするものである。しかしながら、右の鑑定方法は、筆跡異同の判別に新たな観点を提起し、ひとつの方法論を示唆する点において意義は認められるものの、検査の第一段階に設定される基準資料が文字の高さと幅の数値に限定されていて、その他の個性的要素の比照は全く考慮の対象とされていないことに疑問が残るとともに、数値や統計学上の概念を用い、公式を展開することによつて客観性を与えようとしても、その結論は窮極において蓋然性の限度を超えうるものでなく、いうところの伝統的判定法によつて出された結論を排斥するに足りるほどの正確度をもつものとも考えられない。これに対し、右で批判されている関根政一・吉田一雄及び長野勝弘の各鑑定は、いずれも本件脅迫状及び封筒の筆跡と請求人の自筆にかかる上申書一通及び早退届四通の筆跡とを対照資料とし、高村巌の鑑定は、本件脅迫状及び封筒の筆跡と請求人の自筆にかかる第一審の裁判長に宛てた書簡一通の筆跡とを対照資料とするものであるが、いずれも各資料に表出されている文字を拡大して写真撮影し、これをさらに字形の各部分に分解したうえで、その起筆部、終筆部、字画線の間架、書線の脈絡、とめ、はね等にあらわれた形相の個癖と特殊性を比照する検定方法によつたもので、その方法は十分合理性を備えているものと認められ、最終的に視覚に依拠する鑑別であるからといつて非科学的で客観性のない鑑定とすることはできないこと、そして、右の方法により、いずれも各対象資料中の二十数字に及ぶひらがな、漢字及び数字につき、逐一精密な比較検査を行つた結果、三鑑定とも、殆どすべての対照文字について運筆又は筆勢の同一性又は類似性が認められるとし、その反面において、決定的な相違点が発見されなかつたとしていること、しかも、関根・吉田及び長野の各鑑定と高村鑑定とは、対照資料を異にしているにもかかわらず、いずれも対照した筆跡が同一であるとの結論を示していること等の諸点に徴して、右三鑑定には極めて高水準の精度と確実性とが認められるのであつて、その鑑定結果の証拠価値が所論掲記の大塩鑑定により動揺を来たすようなものでないことは明らかである。

同論旨(三)の点について所論の掲げる磨野久一の鑑定書は、本件脅迫状を請求人がみずから筆記した供述調書添付の図面五二通、中田栄作宛て書簡一通及び脅迫状の写し一通と比較し、促音、長音、かな、句読点等の使用にみられる用字上の相違点を抽出して、その表記能力の点から筆記者の異同を判別しようとしたものであつて、右請求人の自筆にかかる各書面には、促音「つ」及び長音「う」の脱落や、「お」と「を」の誤用が顕著に見られ、また、同じ文型のくりかえしが多く、文末に句読点が欠け、文章の後半に文字が乱れて行頭が下がり、筆圧が弱まつて字形が小さくなる等の特徴があらわれていて、その表記能力の低いことを如実に物語つているのに対し、本件脅迫状の表記にはこれらの脱落、誤用、特徴等が発見できないところから、本件脅迫状が請求人の筆記になるものとは考えられないとし、さらに、雑誌「りぼん」からの漢字の引き写しということにも多くの困難と矛盾があるとするものである。しかしながら、本件脅迫状の用字中にも、「子供の命がほ知かたら」、「時かんどおりぶじにか江て」、「そのままかえてきて」、「時が一分でもをくれたら」のように、その指摘にかかる促音「つ」の脱落及び「お」と「を」の誤用が部分的にあらわれており、また、同一文型をくりかえす特徴も一部にうかがうことができるのであつて、総じてその所説は、各書面に表出されている用字の状態を観察し、その概略を帰納してえられた一面の見解という程度のものと考えられ、筆跡の異同を判別する上からは、物理的表示の精密な比照を根拠とする前記三鑑定の鑑定結果を左右するほどの内容をもつものとはいいがたい。

同論旨(三)の点について所論の掲げる宮川寅雄の鑑定書は、前記関根政一・吉田一雄、長野勝弘及び高村巌の各鑑定書の内容を批判し、その対象文字ごとに右三鑑定結果を不正確又は誤りであるとするものであるが、その言うところは、要するに、字体、字形その他対象の表相に関する観察と識別の個人差に由来するものであつて、鑑識に関する一所見とはなりえても、これによつて前説示のとおり証拠価値の高い右三鑑定の一致した鑑定結果を動かすに足りるものということはできない。

同論旨(三)の点について所論の掲げる大野晋の鑑定書は、対象資料に使用されている漢字及びかなの用法、拗音及び促音の表記法、句読点の使用状態等表記に必要な総合的な知的技術を基準として、国語学的考察から筆者を判定する鑑別の方法をとり、本件脅迫状については、小学校六年生程度のものから教育漢字外のものまでを含む三四種類七五字に及ぶ漢字が用いられていて、小学校一年生程度と認められる請求人の能力をもつてしてはとうてい書字不可能と考えられるのみならず、本件脅迫状にみられるような万葉がな的用字法、「え」を「江」と表示する作為的技巧、一〇個の分節中九個に句点を打つ正確さ、拗音や促音を小さく書く知識、重要な文節をくりかえすさいに運筆の速度を高める技能、雑誌「りぼん」から必要な漢字を抽出して万葉がなとして使用する頭脳的技法等は請求人の書字能力の水準をはるかに超えているとするものである。しかしながら、右のように表示された文字の語法上の意味と内容の面からその書面の筆者を探索する方法は、結局、筆者の表記能力又は書字技能の程度又は水準という厳密には確定しえない事項を基本の尺度として判定を行うものであつて、その結論が概括的評価にとどまる限界を有することは覆いがたいところであり、表示自体の厳密な対照検査によつてえられた結果の正確性と信頼度とに対して疑問を投ずるだけの資料とみなすことはできない。

同論旨(三)の点について所論の掲げる石川美智子、水村智恵子、樋口弓子、伊五沢マサ子及び小川京子の各司法警察員に対する供述調書は、いずれも、請求人の自白中において本件脅迫状に使用してある漢字を引き写したとされている「りぼん」なる雑誌が、本件の当時請求人方に存在しなかつたとする所論を裏づけるために提出されたものであつて、請求人の妹である石川美智子は、本件より一年前の春ころ友人から「りぼん」という雑誌を借りて三日くらい後に返したことが一度ある旨を供述し、その他の供述者はいずれも石川美智子の友人で、水村智恵子及び樋口弓子は、石川美智子に雑誌「りぼん」を貸した事実がないとし、伊五沢マサ子及び小川京子は、それぞれ本件の前年である昭和三七年九月ころ石川美智子と互いに雑誌の貸し借りをし合つたときに、「りぼん」を他の雑誌と一緒に貸したことが一度あるが、五日か一週間くらい後に返してもらつたと述べているものである。

そこで、所論の点を考察してみるのに、右に掲記の各供述調書にあらわれている限りでは、本件の当時請求人の妹である石川美智子の手もとに雑誌「りぼん」が存在しなかつたことになるのであるが、右各供述調書の供述内容を更に仔細に検討すると、その貸し借りの相手方や時期について、同人と他の供述者らとの間にはその記憶にかなりのくいちがいや不確かなもののあることが認められるとともに、これらの供述調書をもつて、石川美智子が右「りぼん」を別の相手から借りるなどして本件のころその手もとに置いていたことがなかつたという点まで裏づけるに足りるほどの確実な資料とも考えられない。一方で、この点に関する請求人の自供内容をみると、妹美智子の読んでいたりぼんちやんという漫画の絵を見ながら漢字を捜して脅迫状を書いたが、その本の中には二宮金次郎の像の写真があつたのを覚えているというものであるところ、控訴審において取り調べた雑誌「りぼん」昭和三六年一一月号(当裁判所昭和四一年押第二〇号の七)にはまさしく二宮金次郎の像の写真が掲載されているのであつて、かような自供内容と物件の状態との間における余人の予期しない点についての符合は、自供内容の高度の真実性を物語るものであると同時に、請求人が雑誌「りぼん」を見ながらそこに用いられている漢字を引き写したという事実の存在に強固な裏づけを与えるものといつて差支えないと考えられる。かくして、結局所論の掲げる右各供述調書は、請求人が本件脅迫状を作成するにあたり漢字の一部は雑誌「りぼん」から引き写したものである旨の自供内容と対比するときには、その信用性に対して反駁の根拠を提供するに足りる資料とはみなしがたく、右の自供を採用した確定判決の判断に変更の契機を与えるものということもできない。

前記論旨(四)の点について所論の掲げる五十子貞作作成の便せんメモ四枚は、後掲の手拭一五四本とともに、本件証拠物である手拭一本(当裁判所昭和四一年押第二〇号の一一)と請求人との結びつきに関する確定判決の判断を争う趣旨で提出されたものであるが、所掲の便せんメモ四枚に基づく論旨が理由のないものであることについては、手拭一五四本の提出された趣旨に対する判断と合わせて後に説示するとおりであるから、右は確定判決の判断を動かすに足りる資料とは認めがたい。

前記論旨(五)の点について所論の掲げる荏原秀介の昭和三八年八月一六日付鑑定書、被害者の当用日記及び受験生合格手帳は、本件万年筆が、その残留インクの相違から、当時被害者の常用していた万年筆と異なるものであるとの点に関する証拠として提出されたものであつて、右荏原秀介の鑑定書には、本件万年筆内に残留するインクが、当時被害者の使用していたインクびんの中のインク並びに被害者が本件に近いころ、その常用にかかる万年筆を使用して記載したものと思われる当用日記及び受験生合格手帳に表示されているインクのいずれとも異質である旨の鑑定結果が示されている。しかしながら、被害者の友人中根敏子の控訴審における証言によると、同人が事件の当日かその前日ころ被害者にインクを貸したことのある事実がうかがわれるほかに、関係証拠によれば、被害者は事件当日の午後学校を出てから狭山郵便局に立ち寄っていることが認められるのであつて、友人からのインクの借用補充とともに、同郵便局で万年筆のインクを補充したという推測を容れる余地も残されていないとはいえない。そして、後に説示する荏原秀介の昭和三八年八月三〇日付鑑定書においては、所論及び検察官の意見の双方により承認されているとおり、右中根が被害者に貸与したインク及び右狭山郵便局に当時備えつけられていたインクを対照資料として、本件万年筆内に残留していたインクとの異同が鑑別され、右対照資料のいずれもが本件万年筆内の残留インクと類似のものであるとの鑑定結果が出されているのであつて、このことによつても、前記のように被害者が友人から借りたり郵便局へ立ち寄つたりして、別のインクを補充したという点の蓋然性が一層強められるように思われる。かようにして、被害者が事件の当時所持し、常用していた万年筆に、それまで使用していたインクとは異質のインクを事件の発生に近い時期に補充し、そのインクが本件万年筆内に残留していたという事態の考えられる可能性は十分に存在するわけであつて、結局、所掲の書面及び物件により本件万年筆内に残留していたインクと被害者の平生使用していたインクとの相違が明らかになつたとの一事をもつて、直ちに本件万年筆を被害者のものでないとすることはできないのみならず、このことによつて、本件万年筆は被害者の所持品に相違ないとする被害者の実兄中田健治の証言及び請求人の自供の真実性並びにこれらに基づき本件万年筆を被害者の所持品であるとした確定判決の認定がなんらかの影響を受けるということも、証拠の直接性及び証明力の対比からしてありえないことと考えられる。

なお、同論旨(五)の点について所論の掲げる小谷野憲之助の司法警察員に対する供述調書、学級日誌及びペン習字の浄書は、被害者の通学していた川越高等学校入間川分校において、本件発生の当日である昭和三八年五月一日の午前に行われた書道の授業時間中に、被害者がその所持にかかる万年筆で右ペン習字の浄書を筆書したという事実を示すにとどまり、これらを所論に関連させて考察してみても、更にその主張を裏づけるべき資料が存しない以上、反証としての意義を認めることはできない。

前記論旨(六)点について所論の掲げる上田政雄の鑑定書は、すでに控訴審において証拠調の行われた同人の昭和四七年七月二〇目付鑑定書を補足する趣旨のものであつて、五十嵐勝爾の鑑定書に示された鑑定結果を批判し、絞頸の場合においても、幅の広い手拭や帯などを用いたときには、茶褐色の表皮剥離等明らかな索痕を生ずることなく、単にその索状の上縁又は下縁のみが五十嵐鑑定にいうC1のごとき境界の不鮮明な変色部として現れることも考えられるのであるから、五十嵐鑑定のように本件被害者の死体に索条物による索痕が認められないとの理由で絞殺はありえないと判定することはできないとし、また、同鑑定が前頸部下部に手掌大の皮下出血があるとしているのは、その部位からして不自然であるうえに、手掌大の皮下出血があるからといつて直ちにその成因が手掌面による圧頸であるとは断じえず、さらに、被告人の自供のとおり片手の拇指と示指との間に被害者の頤下部を挾んで頸部を圧迫したとしても、左右側頸部を同時に締めつける力は働きにくく、本件死体のように眼瞼や結膜等に溢血点を伴わない早期の窒息死にいたらせることは、不可能に近い旨の見解を述べるものである。しかしながら、五十嵐勝爾の鑑定書が本件被害者の死因について記述している鑑定意見は、同人の第一審における証言にあらわれているとおり、直接死体を見分し、みずから解剖を実施したうえでえられた所見に基づく鑑定の結果であること、その鑑定経過について同人が控訴審における証言中で説明しているように、本件死体の頸部内景にみられた所見は、索条物でない物体で扼圧されたときに生ずる通常の痕跡であつて、接触面で比較的広く、暗赤紫色の変色部C1も、特に力が加わつた場合に認められる明瞭な境界がなかつた点から、むしろ死斑に近いものと判断されたこと、そして、右のような所見のもとにおいても、五十嵐鑑定人は、圧頸の手段を判定するのに極めて慎重で、C1の着色所見だけでは、手掌、上膊、前膊その他いかなる物体によつて圧頸したものか決めかねる旨その結論を留保し、かように慎重な吟味のすえに最少限度の確信として、絞頸による殺害ということはありえないとの見解にいたつたものと認められること等の諸点に照らせば、同人の鑑定意見は、右上田政雄の鑑定意見が、書面と写真という間接的な資料による考察を前提とし、可能性の考えられる推論として述べられているのと比較して、その信頼度と証拠価値の極めて高いものであることは明らかといわなければならない。また、本件被害者の死因をもつて扼頸とすることに対する右上田鑑定の否定的見解も、断定的な反論というほどのものではなく、本件死体にみられる舌先端の挫創や頤下部の皮下出血は、頤下部を後上方に押し上げる力が働けば発生は可能で、その力は、幅広い索条物による場合に限らず、手掌を頤結節から頤下部にあてて指を顔面部の方向に伸ばし、頤下部を押し上げて圧迫する方法で加えられてもよいとし、結論において、本例の場合は絞頸のほかに扼頸という機転も否定することができないとしているのであつて、叙上全般を通じ、所掲上田政雄の鑑定書に示された意見は、五十嵐勝爾の鑑定結果とすべての点で対立するものではなく、まして、その結果を覆えして、この点に関する自白とのくいちがいを明らかにするまでの資料とみなすことはできないものと考えられる。

同論旨(六)の点について所論の掲げる青木利彦の意見書は、五十嵐勝爾の鑑定書において本件被害者の死因を扼殺と判定することの根拠として挙げている前頸部の皮下出血、舌前端部の挫創、甲状線周囲の出血、喉頭粘膜の溢血、顔面うつ血等が軽度であること、ほかに索条物の痕跡、指圧痕又は爪痕が存在しないこと等の所見について、その大部分が、絞頸又は扼頭を問わず、頸部圧迫による窒息死に共通のものであるから、これらの所見のみによつて本屍の殺害方法を扼殺と決定することは困難であるとし、同鑑定の示す所見中、軟性索条物による索条痕とみるべきC1、前頸部上部の細条痕、bのような帯状の変色部、前頸部正中近くの蒼白部、C8部分に散在する暗黒色の斑点等から判断して、本件につき自分の考えを一言で言うならば、上田政雄の鑑定と同じく絞殺説であり、その場合創傷の状況からみて用具は軟性の索条物である可能性が最も大きい旨の意見を述べている。その論ずるところは、概ね上田政雄の第二次鑑定書の見解に同調して、絞殺説を支持するものであるが、その論拠には右上田鑑定の指摘する事項以外に特に新たなものもなく、また、同鑑定と同様に各所見に関する解釈が間接的資料に基づく判断であつて、各所説を通じて、前記五十嵐鑑定に対する批判又は論評にすぎない部分が多い点にその限界があることは否定しがたい。殊に、五十嵐鑑定が示すC1の所見を索条痕とみなし、前頸部下部の細条痕を絞殺のさいにときどきみられるしわに相当するものと考え、また、前頸正中近くの蒼白部とC3の部分に散在する暗黒色の斑点をもつて、この付近で索条物が結ばれたさいの痕跡であるとするなど多分にその絞殺説の論拠には各所見に関する独自の解釈と推理とが想定されているように思われる点があること等に照らすと、その結論も結局一般的な可能性の範囲内におけるひとつの試論の域を出でるものではなく、前記のように直接死体解剖の結果からえられた五十嵐鑑定の鑑定結果に対して、なんらかの影響を与えうる反論とみなすことはできない。

同論旨(六)の点について所論の掲げる木村康の意見書は、五十嵐勝爾の鑑定書の記載中、本件死体の前頸部に横走する着白色の皮膚皺襞(b)、左前頸部に左方に横走する暗赤紫色の変色部(C1)、中頸部にみられる横走状の暗紫色の変色部(C2)、(b)の上方に存在する暗紫色の部分(C3)、(C1)の下方に広がる暗赤紫色の部分(C4)、(C3)と(C4)との間に多数認められる小指爪大以下の暗黒色の斑点、C3)の下縁部と(C4)の上縁部に斜走する多数の赤色線条、(C3)の内部にみられる手掌面大の皮下出血(ほ)、甲状軟骨右上角部にあらわれている大豆大の出血(ぬ)、(C1)、(C2)、(C4)の内部にみられる手掌面大の皮下出血(へ)及び甲状線左右両葉周囲に存在する軟凝血(ち)、(り)等の所見を取り上げ、同鑑定書の説明によれば、体表部の損傷はローマ文字をもつてあらわし、大文字を使用してあるのは生存中に成傷した新鮮創、また、小文字を使用してあるのは生活反応の認められなかつた死後の損傷であり、平がなを使用してあるのは鈍力の直接結果と判断される内部の損傷を意味するというのであるから、右(C1)、(C2)、(C3)、(C4)、(ほ)、(へ)、(ち)、(り)及び(ぬ)はいずれも生存中の損傷であると考えられ、このことと頸部の写真観察の結果とによると、(C4)から右方に延びる褪色部及び(C3)を上縁とし(C1)を下縁とする淡黒色帯状の圧痕は、いずれも索条物による絞死のさいにみられる索溝と判断されることと、右二条の索溝の上下両縁に皺襞形成に伴う線状皮内出血とみられる紋様が出現していることから、本屍の死因は絞頸による窒息死(絞死)であると認められ、使用された索条は、表面の軟いタオル、マフラー、スカーフ等が考えやすいとの意見を述べるものである。しかしながら、右指摘にかかる(C2)、(C3)及び(C4)の各変色部に関する記述を五十嵐勝爾の鑑定書について調べてみると、いずれもその該当部分につけられている記号は小文字のローマ文字であつて、この点は控訴審における同鑑定人の証言によつても確認されているところであり、また、同鑑定書第四章(1)3の項においても、(C3)及び(C4)にみられる赤色斜走線条は、生活反応がなく、死後索条物による圧迫から生じた死斑と判断される旨の明確な説明が加えられている。右木村康の意見書の結論は、(C2)、(C3)及び(C4)の変色部を生存中の新鮮創であるとし、(C3)を上縁とする圧痕及び(C4)を一端とする褪色部を絞扼のさいの索溝と判断したことから導かれたものであるから、右のように判断の素材となつた五十嵐鑑定書の記載に関して誤解がある以上、その意見は、推論過程の核心部分において前提を失うことになるものといわざるをえない、そして、右木村意見書の所説は、総じて書面の記載と写真の示すところを手がかりにした間接的認識を前提とするものであるから、前記上田政雄の鑑定書及び青木利彦の意見書と同様に、その証拠価値におのずから制約が存することを認めざるをえず、直接の解剖所見に基づく五十嵐勝爾の鑑定に対して有効な疑義を生じさせるだけの反対資料を提供するものとは思われない。

前記論旨(七)の点について所論の掲げる木村康の意見書は、五十嵐勝爾の鑑定書に示された所見等からして、本件死体には、通常強姦の屍体の殆どについてみられる大腿内側の損傷が全く存在しないこと、また、五十嵐鑑定で暴力的性交の根拠としている損傷は、爪、手指等によつて形成されたとみるよりも、表面が粗面をなす物体との接触又は擦過により生じたものと判断するのが妥当と考えられること、さらに、当時被害者の着用していたズロースの裏面に認められた斑痕は、精虫斑である可能性が強く、その付着部位が外陰部に接する部分であることから、被害者が性交後ズロースをはいて身づくろいをした事実を裏づけるものであること等の諸点が指摘され、これらの諸点に徴して、本件の性交は、自然的な性行為として行われたもので、少なくとも強姦という態様で行われたものではないとの意見を述べるものである。ところで、本件姦淫のさいの状況に関する請求人の自供内容をみると、被害者をタオルで目隠しして、手拭で後ろ手に縛り、仰向けに押し倒して、そのズロースを膝の辺まで引き下げ、同女の上に乗りかかつて姦淫しようとすると、同女が救いを求めて大声を出したため、右手の親指と他の四本の指を拡けて同女の喉頭部に押しあて、この部分を強圧しながら、左手でズボンのチッャクをおろして陰茎を出したうえ姦淫を遂げ、そのあとで同女の死亡したことに気づいたのであるが、右の間に、同女は身体を動かして抵抗することはしたけれども、両手が縛られ、首もおさえられていたので、大きな動きはできず、足を少し動かした程度であつたというのである。右によれば、被害者は、両手を後ろ手に縛られ、相手の身体でおさえつけられているうえに、頸部を強圧されることにより、殆ど抵抗のできない状態であつたことになるわけであつて、かかる状態のもとで行われた姦淫の結果として、大腿内側の損傷が被害者の身体にあらわれなかつたとしても、決して不合理なことではなく、この点をもつて自供の内容と客観的状況との間の重要なくいちがいとすることはできない。また、被害者が生存中に成傷したものと認められる外陰部の表皮剥離、擦過傷及び皮下出血の損傷が、木村意見書の指摘するとおり、爪、指等によつて形成されたものではなく、表面が粗面の物体との接触又は擦過によつて生じたものであつたとしても、前記自供にかかる暴行の態様に照らして少しも不自然なことではなく、右の推論から直ちに暴力的性交を否定するのは、前記自供にかかる本件姦淫の行われたさいの具体的状況に関する考察を欠く飛躍した論議というほかない。さらに、同意見書が、被害者のズロースに付着している斑痕について、精液斑である可能性が強いとしている点に関しては、この意見が肉眼による観察に基づく見解にすぎないものであるうえに、検察官の意見書によれば、検察官の保管する資料のなかに、本件捜査の当時右ズロース等を検査した結果、これらに精液の付着は認められなかつたとする松田勝の昭和三八年五月一七日付検査回答書が存在することがうかがわれるから、右ズロースに精液痕が付着していたことを論拠に述べられている意見は、その前提において不相当のものとみなさざるをえないことになる。なお、木村意見書は、五十嵐勝爾の鑑定が、本屍体の腟内容について検査した結果、一視野に三又は四匹の形態完全な精虫多数を検出したとしている点につき、一回の射精量の平均値から推論して、被姦婬者の死直前の姦淫に由来する精子の数としてはやや少ない旨の意見を述べるが、右の意見自体本件について被害者の死亡直前における姦淫を否定するまでの趣旨のものとは解されない。かくして、所掲の木村意見書は、いかなる点においても、請求人の自供内容及びこれを採証した確定判決における本件姦淫の態様について、疑問を提供するに足りる資料とみなすことはできない。

前記論旨(八)の点について所論の掲げる上田政雄の鑑定書は、五十嵐勝爾の鑑定書に示されている本件死体に関する所見中、後頭部にみられた損傷を取り上げ、これが頭頂部皮下に達し、一、二針縫合を要するほどの創傷であつた以上、この創傷からの出血が周囲の皮膚や毛髪に付着し、あるいは、体外の物体に落下又は付着する等の現象がみられなかつたはずはないとの意見を述べるものであり、同じ論旨について所論の掲げる大谷木豊次郎の実況見分調書が、昭和三八年七月四日、本件死体を隠匿したとされる芋穴のたて穴内壁及び底面につきルミノール反応検査を行つたところ、血痕の陽性反応は認められなかつたとしている点と総合して、これらの資料が、本件死体を右芋穴に隠匿した旨の請求人の自供内容に、客観的事実との重要なくいちがいのあることを明らかにしたというものである。しかしながら、五十嵐勝爾の鑑定書によると、本件死体にみられた後頭部裂創は、その部位、程度及び創口周囲の皮膚面に著名な挫創を随伴していないことから考えて、捧状鈍器の使用等による加害者の積極的攻撃の結果とはみなしがたく、むしろ本人の後方転倒等の場合に鈍体との衝突等により生じたものと考えられるというのであつて、この損傷による外出血についての説明がない点からすれば、確定判決及び上告審の決定がそれぞれ説示しているように、その傷害の程度及び出血の量も特に記述すべきほどのものではなかつたことが推認され、この点については、写真と書面による判断を前提にした右上田鑑定書の意見に、抽象的な思考からする臆測が多分に介在していることも指摘されなければならない。また、この創傷の成傷時期は、事実関係の経過に徴して、ほぼ被害者の死亡する前後のころ、すなわち請求人の自主等によれば、当日の午後四時三〇分ころと推定され、その後死体を運んで午後六時ころこれを芋穴に入れるまでには約一時間三〇分の時間が経過していることになるので、死体を芋穴に入れるさいには、すでに右創傷からの出血は凝固して流出又は落下するような状態でなかつたことも十分考えられる。かような考察に立つときには、右上田政雄の鑑定書における意見及び大谷木豊次郎の実況見分調書における検査結果を総合しても、これらに基づく所論が死体を芋穴に隠匿した旨の請求人の自供内容に合理的な疑義を提供するに足りる反論とはなりえないものと思われ、また、これらの資料によつて確定判決の判断が動揺するということも考えられない。

同論旨(八)の点につき所論の掲げる大谷木豊次郎の実況見分調書については、前段の論点のほかに、自供にあるような方法で荒繩を使用し、死体を桑の木に結びつけることは、桑の木の幹の太さからして不可能である点をも明らかにする資料であるとされるので、同調書を調べてみると、その記載中には、所論のとおり、請求人が繩を結んだとされる桑の木は、根もとの部分において周囲四三センチメートルであつた旨の測定結果が示されている。しかしながら、同調書には、右の記載に引き続いて、桑の木の周囲は地上五〇センチメートルの所で二二センチメートルであつたとの記載もあり、荒繩を桑の木のどの部分に結んだかの点が明確でない本件の場合に、確定判決が第一審の検証の結果に基づいて右桑の木の周囲を二八センチメートルと算定したことは相当であると考えられ、この算定に立つときには、本件死体を芋穴に吊り下げるにあたり、確定判決の認定に沿うような繩の使い方でその一端を右桑の木に結びつけることが可能である点は同判決が説示するとおりであるとともに、仮りに、所論のような繩の使い方を想定した場合にも、その一端を右桑の木に結びつけることが不可能ではないと認められるので、確定判決の関係部分に関する認定が同調書の右記載によつて影響を受けるべきものとは思われない。

なお、同論旨(八)に関連して、所論中には、死斑の消失と体位転換との時間的関係を取り上げ、確定判決の認定にかかる本件死体が仰向けに置かれていた時間とその死斑の状態との間に矛盾がないとした同判決の判断を論難し、また、すでに第一審の公判期日に証拠調の行われた大野喜平作成の昭和三八年五月四日付実況見分調書を引用して、死体を隠匿した芋穴付近の畑の小麦が踏み倒されていた形跡が認められないとし、このことと右芋穴付近で死体隠匿の操作をしたとする自供内容とのくいちがいを主張する部分がみられるけれども、いずれの点についてもその裏づけとなるべき新たな証拠の提示がないので、これらの所論については判断のかぎりでない。

また、同論旨(八)に関連して所論の掲げる生越忠の鑑定書中の玉石に関する所説は、土中に埋められていた本件死体の頭上部に発見された玉石について、このような大いさの礫塊が死体埋没場所付近の黒ぼく土中に孤立して存在することは、少なくとも自然状態では絶対にありえないとするもので、所論は、右所説から、玉石が死体の埋没場所に存在するのは、本件犯人がなんらかの意図のもとに同所へ持ちこんできたものに相違ないと推論し、この推論に立つて、請求人の自白が玉石の点に触れていないのは、自白が虚偽で、請求人が本件の犯人でないことを裏づける証左であると主張するのであるが、右は、ほぼ同旨の論旨が確定被告事件の控訴審において主張され、その判決中において判断されている事項であつて、右鑑定意見は、玉石がなんらかの人為によつて本件死体埋没場所付近に運搬され又は移動させられた可能性を否定するものではないが、所論がその人為をもつて本件犯人の行為に限定する根拠は薄弱なものと考えられ、さらに、この玉石の右場所における存在が請求人の行為となんらかの関連をもつていたと仮定しても、同判決が説示しているように、暗闇で死体埋没の作業に気をとられていた当時の行動に関する供述中において、右玉石に触れた供述部分が必ずあらわれると限つたわけではないから、結局、右鑑定書中の玉石に関する所説と請求人の自白中にこの玉石に触れた部分がみられないことをもつて自白の虚偽を主張し、請求人と本件犯人との同一性を否定しようとする論議は、採用に値するものとはいえない。

前記論旨(九)について所論の掲げる荻野晃也の鑑定書は、捜査官が請求人を被疑者として取り調べるさい、犯行の現場、被害者の所持品を投棄した場所、被疑者の行動経路等を自供調書添付の図面に図示させるにあたつて、取調官が先にわら半紙を二枚重ねて略図を書いたのち、その下の紙に写つた筆圧痕を請求人になぞらせて添付図面を作成させた旨の控訴審における請求人の弁解を裏づけるべき資料として提出されたものであつて、確定判決の採証している宮内義之介及び上野正吉の各鑑定書の示す鑑定の経過及び結果について以下のように批判している。すなわち、右宮内、上野両鑑定は、モデル実験の設定にあたり原図との比較が十分でない等の難点があり、「鉛筆線に飛びこえ現象があれば筆圧痕が先である」との命題も、その裏命題及び逆命題が検討されていないために、適応の限界が明らかでなく、また、その言うところの「飛びこえ現象」に関しては筆圧荷重の点、「持ちはこび現象」に関しては「飛びこえ現象」との相関関係の点、「消しゴム試験」に関しては筆圧痕が先行した場合の適応条件の点にそれぞれ疑問が残されており、総じて、鉛筆線と筆圧痕との交差部のみに着目して、筆圧痕の選択が恣意的であること及び鉛筆線と筆圧痕の交差箇所が少なく、統計的精度が劣ることからして、鑑定としての有効性及び妥当性が極めて低いと論難するものである。しかしながら、その非難の多くは、モデル実験自体に関する一般的方法論に属するものであり、その他の部分についてみても、表出されている特定の鉛筆線と筆圧痕との先後関係を検定するにあたり、その関係が最も鮮明にあらわれる交差部分を対象とするのは、むしろ合理的な選択というべきであつて、これをもつて恣意的で精度の低い鑑別方法とすることはできないうえに、「飛びこえ現象」、「持ちはこび現象」及び「消しゴム試験」から導かれる原理を成立可能な命題の限度で原図面の検査に適用することにはなんらの不都合も考えられないから、右の非難はいずれも正鵠を失しているものといわなければならない。また、右荻野鑑定は、対象となつた原図面中にみられる濃淡各種の筆圧痕のうち、謄本作成者又は被疑者本人によつてつけられたものとみられる最も濃いもの及びこれに次いで濃いものを除き、そのうちの最も薄いものについて調べてみると、取調官が事前の作図にさいしてざら紙一枚を介在させた場合の筆圧荷重が五〇グラム以上一五〇グラム以下と考えられる点からして、この場合の筆圧痕とまさしく一致するとし、さらに、筆圧痕上を船筆線が重なつて通つた場合の「中抜け現象」を追求し、走査型電子顕微鏡による表面の高倍率精密観測法を用いれば、筆圧痕の先後関係について宮内、上野両鑑定より一層有効な判定が可能であるとするのであるが、右にいう筆圧痕の一致には、筆圧痕をつけうる者について想定されている筆圧荷重の数値等不確定的な要因が前提となつている点から考えて、その論ずるところは結局ひとつの試験的推論の程度を出でるものではなく、また、新たな方法による鑑別も、これによつて明確な結果がえられたという趣旨とも解されないので、以上いずれの点からしても、前記宮内、上野両鑑定の結論に対して十分根拠のある反論を提供するに足りるものとはいいがたい。かくして、所掲の荻野鑑定書によつても、鉛筆線より先につけられた筆圧痕は発見できなかつたとする右宮内、上野各鑑定書における鑑定結果及び各自供調書添付の図面にみられる筆圧痕は、すべて調書作成後においてその謄本又は写しをとるさいにつけられたものである旨の各関係取調官の証言は動かしがたく、これらに基づき、取調官の不当な誘導によつて右各図面が作成されたような事実はないとした確定判決の判断に疑いの生ずる余地はない。

叙上のとおり、右に検討した所論掲記の各資料は、その内容の点においても、直接反駁の対象としている各証拠の証拠価値及びこれらの証拠を総合して形成された確定判決における各論点に対応する判断を動かすに足りるものではなく、右各資料を確定判決前に提出された関係全証拠と総合的に評価して判断しても、確定判決における事実認定につき合理的な疑いを抱かせ、これを覆えすに足りる蓋然性のある証拠とは認められないから、刑訴法四三五条六号所定の新たに発見された請求人に無罪を言い渡すべき明らかな証拠に該当せず、したがつて、これらの資料に基づく所論はすべて理由のないものに帰する。

次に、所論掲記の各資料中、前段に摘記した以外のもの、すなわち、前記論旨(二)の点に関する渡辺毅及び吉村功の各意見書並びに深田和之の実験結果、同(四)の点に関する手拭一五四本及び横田雄一の調査報告書、同(五)の点に関する昭和三八年八月三〇日付荏原秀介の鑑定書、柏谷一彌の鑑定書及び内田雄造の報告書、同(七)の点に関する謝国権の意見書、同(八)の点に関する中山武敏及び木村康の各報告書、大野町子、中北龍太郎の報告書並びに同(一〇)の点に関する串部宏之・北田忠義の意見書は、いずれも確定判決後に作成又は発見されたもので、確定被告事件の各審級における審理を通じ、証拠調又は事実の取調はもとより、その他のいかなる方法によつても裁判所の判断にさらされた事跡のないものである点において、形式上一応新たな証拠の性格を有するものであることが認められる。そこで、これらの内容について、以下に検討を加えてみることとする。

前記論旨(二)の点について所論の掲げる吉村功の意見書は、専ら統計学の立場から前記井野博満の鑑定書に示された統計的解析の正当性を説くとともに、この点に関する検察官の本件再審請求に関する意見書中の見解を非難するものであり、また、同じ論点について所論の掲げる渡辺毅の意見書は、専ら数学上の理論から右井野鑑定書の示す計測方法を支持するとともに、右と同じくこの点に関する検察官の意見を批判するものであるが、いずれもそれぞれの専門理論に立つて抽象論を展開するにとどまり、本件との関連性が極めて間接的なものであるうえに、その結論とするところは結局右井野鑑定書の示す見解と同旨のものに帰着するわけであるから、同鑑定書に関して前に説示したと同一の理由により、確定判決が採証している関根正一・岸田政司の鑑定書の証拠価値に影響を与えるものとは認められない。

同論旨(二)の点について所論の掲げる弁護人深田和之の実験結果(昭和五四年五月二三日付弁護人の意見書所載)は、前記石膏型成足跡と押収された地下足袋との同一性に関する有力な根拠とされている破損痕のうち、前記関根正一・岸田政司の鑑定書にいわゆる「あ号破損痕」について、断面の形状を線形にあらわして比較する方法により、右足跡と地下足袋とを対照検査したところ、右足跡には「あ号破損痕」の印象されていないことが判明したというものであるが、右の検査は、現段階ではひとつの試験的な実験方法にすぎないものと考えられ、したがつて、その実験結果も、岸田政司の控訴審における証言のとおり長年多くの鑑識例を取り扱つている右関根正一及び岸田政司による鑑定の結果に対して、反論を呈するに足りる証拠価値をもつものとは認められない。

前記論旨(四)の点について所論の掲げる手拭一五四本は、確定判決において、本件被害者の両手を縛るのに使用されていた手拭が五十子米屋から昭和三八年正月の年賀用として請求人方を含む得意先に配布された手拭のうちの一本であり、請求人は本件当時これを入手しうる地位にあつた旨認定されている点を争うための資料として提出されたものであつて、その提出の趣旨とするところは、右五十子米屋が昭和三八年の正月に配布した手拭一六五本のうち、一五五本が本件の捜査によつて回収され、未回収の一〇本のうち、三本についてはその使途が明らかにされ、四本についてはその不存在が確認された結果、残りの三本について処置と行方が不明ということになり、そして、その三本のなかに、請求人の姉むこにあたる石川仙吉方に配布されたとされる二本のうちの一本と請求人の隣家である水村しも方に配布されたとされる一本とが含まれているという理由で、右確定判決の判断が導かれたものと考えられるが、右手拭一五四本の存在が示すように、捜査機関によつて実際に回収されたのは、一五五本ではなくて、一五四本であつたという真相が明らかになり、また、前提手拭の配布先が書かれている便せんメモ四枚の記載にみられるとおり、実際には配布されていない石川仙吉、水村しも及び斉藤文吾の氏名が配布先として掲げられているうえに、配布量の合計をあらわす数字が加筆される都度多くなつていることもわかり、以上の諸点からして、捜査機関が、右手拭の配布されていない石川仙吉方及び水村しも方をその配布先とし、二名分の実際の配布先を不問に付する偽装工作によつて、右手拭と請求人とを結びつけようとした形跡のあることが裏づけられるとするものである。

そこで、検察官の「追加意見書添付の疎明資料の一部訂正等について」と題する第二次追加意見書に添付されている証拠金品総目録の写しによつてその存在が認められる所論の手拭一五四本につき、これと本件証拠物である手拭一本(当裁判所昭和四一年押第二〇号の一一)との関係及びこの点に関する所論の各論点を検討してみると、昭和三八年の正月に五十子米屋から年賀用として前年までの分とは図柄上区別される手拭一六五本が右検察官の第二次追加意見書に添付されている滝沢直人の報告書の写しの別表中関係資料によつて右手拭の配布がなかつたと認められる番号58の斉藤文吾方を除くその余の一六〇軒の得意先に一本又は二本宛配布されたこと、本件証拠物である手拭がその図柄からして右五十子米屋からの配布にかかる昭和三八年分年賀用手拭のうちの一本であること及び捜査機関によつて保管されている所論一五四本の手拭が右配布にかかる一六五本の手拭のうち本件の捜査によつて配布先から回収されたものであることは、いずれも検察官の右第二次追加意見書に添付されている証拠金品総目録及び滝沢直人の報告書の各写し並びに同人の控訴審における証言によつて明らかなところであつて、所論もこれらの諸点については特に疑義を挾む趣旨ではないものと見受けられる。所論は、右配布先から回収された手拭の数量を問題とし、確定判決が回収したのは一五五本であつて未回収分が一〇本であつたとする前提から判断を進めている点に対して、捜査機関が現に保管している手拭が一五四本であることを根拠に、真実回収した手拭の数量は一五四本であつたことが判明したとし、このことから確定判決のその余の判断の前提が崩れる旨を主張するものと解されるものであるが、検察官の追加意見書又は右第二次追加意見書に添付されている各任意提出書、証拠金品総目録及び滝沢直人の報告書の各写し並びに同人の控訴審における証言によつて調べてみると、本件の捜査によつて捜査機関が手拭の配布先から任意提出を受けて回収した手拭のうち昭和三八年分年賀用手拭に属するものは、検察官の右第二次追加意見書において釈明されているように、中島昇の任意提出にかかる昭和三八年分とされた一本を中島利雄の任意提出にかかる一本に相当するものとみなすことにより、合計してまさしく一五五本であつたことが示されており、この回収の経過及び回収した数量に関して特に解明されない不審な点や疑惑を抱かせるような節は見当らないのである。ただ、右任意提出にかかる手拭のうち現に捜査機関において保管中のものが一五四本であつて、その誤差に相当する一本の所在を明らかにしえない点は所論指摘のとおりであり、この点が所論の疑念を生む発端となつているものであるけれども、捜査機関の粗漏が責められるべきことは暫くおくとして、任意提出された手拭のうちの一本が紛失した経緯について検察官の追加意見書に述べられている説明は、右証拠金品総目録の写し中の番号323の記載に照らして首肯するに足りるものと考えられ、また、右各任意提出書の写しの記載中に偽造、偽装等を疑うべき痕跡がみられない以上、右中島昇及び中島利雄の関係を除き、これらに表示されている各物件がその表示にかかる数量だけ提出されて回収されたということについては、その段階において誤りのない事実であつたものと認めざるをえない。また、所論は、右数量の問題に関連して、前掲五十子貞作作成の便せんメモ四枚にみられる氏名、数字、記号等の記載に偽装工作のあとがうかがわれる旨を述べるのであるが、右便せんメモ中の数字や符号については、五十子米屋が年賀用手拭を配布する作業の各段階ごとにその担当者が備忘の目的で独自の記号や数字を記入し、これに他の関係者が別の必要から更に加筆するといつたことが重なつたためにかような表示の様相を呈するにいたつた旨の検察官の意見書中における説明があり、それぞれ対応の資料に基づいてその記載の意味をくまなく解明している右の説明と前記滝沢直人の報告書の写し及び同人の控訴審における証言に徴するならば、右メモには当時の状況とその記載の用向きからみて誰しも納得しうる事項が表現されているのであつて、一見して余人に判読しがたいからといつて不可解な記載があるわけではなく、殊に、所論の疑うような特定の意図をもつた改ざんや偽装の行われた形跡は全くうかがいえないものといつて差支えない。そして、右メモには、明らかに請求人方である石川富造方に一本、請求人の姉むこにあたる石川仙吉方に二本及び請求人の隣家である水村しも方に一本が各昭和三八年分年賀用手拭の配布先及びその数量として記載され、資料に基づく検察官の説明によれば、これらの配布先につきいずれも配布ずみの記号が付されているのであつて、この記載と前記滝沢直人の報告書の写し及び同人の控訴審における証言に徴するときには、所論のように石川仙吉方と水村しも方とが実際には配布されていないのに配布先として記載されているというごとき推測を容れる余地がないことは勿論、年賀用手拭が近在一帯の得意先に配布されている揚合に、特段の事情もなく所論のように右両人方に限つて配布先から除かれていたとすることの方がかえつて不自然な推測というほかないように思われる。かようにして、五十子米屋から配布された昭和三八年分年賀用手拭一六五本のうち回収されたものが一五五本であることと石川仙吉方に二本及び水村しも方に一本それぞれ配布された事実とが明らかである以上、前記各任意提出書及び滝沢直人の報告書の各写し並びに同人の控訴審における証言によつて、その未回収分一〇本のうち石川仙吉方に配布された二本のうちの一本と水村しも方に配布された一本とが含まれていることは否定すべくもないところであつて、その使途も所在も不明である点から、これらのうちの一本と本件証拠物である手拭と同一の物であることの可能性が取り上げられたとしても、少しも不合理な推論ということはできないと考えられる。以上により、所掲の手拭一五四本の存在及び前掲便せんメモ四枚に基づく所論は、請求人が本件の当時証拠物である手拭を入手しうる地位にあつたとする確定判決の認定に合理的な疑義を提供するに足りるものとはいいがたく、したがつて、この点をもつて請求人と本件犯人とを関連づける情況証拠のひとつに掲げている確定判決の判断になんらの影響を与えうるものとも思われない。

同論旨(四)の点について所論の掲げる横田雄一の調査報告書は、前記手拭一五四本につき逐一見分した結果とその存在を確認したことを示し、また、前記五十子貞作作成の便せんメモ四枚の記載事項につきこれを検認してその内容を分類移記したものであるが、すでにその調査の対象となつた手拭一五四本及び便せんメモ四枚がいずれも証拠として掲げられている以上、新たな証拠資料を提供するものでないのみならず、右手拭一五四本及び便せん四枚に関して前に説示したと同一の理由により確定判決の判断に影響を及ぼすものとはみなされない。

前記論旨(五)の点について所論の掲げる昭和三八年八月三〇日付荏原秀介の鑑定書は、被害者の所持品であつたとされる本件万年筆内に残留していたインクが、所論及び検察官の意見において承認されているように、被害者の学友中根敏子の使用するインクびん内のインク及び狭山郵便局備付けのインクのいずれとも類似のものと思われる旨の鑑定意見を示しているもので、前示同月一六日荏原秀介の鑑定書、被害者の当用日記及び受験生合格手帳により、本件万年筆内に残留するインクが被害者の常用していたインクと異質のものであるとの点を立証するについて、これを側面から補強する趣旨で提出された資料であるが、事件発生前被害者が万年筆のインクを補充した事実が推測される点からして、インクの相違のみを理由に本件万年筆を被害者の所持品でないとすることができない点については前に説示したとおりであり、また、右鑑定意見が、反面において、前示のようにインクの補充という推測を裏づける意味をもつことにもなるので、いずれの点からしても、本件万年筆を被害者の所持品とすることはできないとする所論を支持するに足りる資料となりうるものとは思われない。

同論旨(五)の点について所論の掲げる柏谷一彌の鑑定書は、万年筆の使用期間につき、使用した紙の種類や使用者の使用癖等の条件の相違により一概に判定することは困難であるが、本件万年筆のペン先を検査した結果によると、その使用程度はごく少ないものといいうるというものであるところ、この事項と、本件万年筆を被害者の所持品とするには疑いがあるとする論旨との関連が十分明らかでないので、その証拠資料としての意義及び価値について判断するに由ないものである。

同論旨(五)の点について所論の掲げる内田雄造の報告書は、確定被告事件の訴訟記録中の検証調書を参照したうえ、直径1.1センチメートルの万年筆を床から1.75メートルの高さにある鴨居上の奥行三センチメートル、4.5センチメートル及び8.5センチメートルの各位置に置き、鴨居から一メートル以上3.5メートルまで離れ、床から1.6メートル、1.5メートル及び1.4メートルの各高さでこれを見た場合において、右万年筆の上端を見とおすことの可能な範囲を調査し、その調査の結果を各場合ごとに説明しているものである。そして、右報告書の調査結果(昭和五四年七月三日付弁護人の意見書訂正申立書により訂正されたもの)に従うならば、本件万年筆の発見された請求人方勝手場入口の鴨居の上の最深部に右万年筆を置いた場合でも、鴨居から2.5メートル離れて、人の平均的な目の高さと考えられる床から1.5メートルの高さで見たときには、その上端を見とおすことができることになるわけであるが、すでに控訴審において証拠調の行われた第七回検証調書をみると、右請求人方の鴨居から2.22メートル離れて、床から1.58メートルの高さで見たところ、鴨居の上に置かれた万年筆の存在を認識することができた旨の記載があるのであつて、この双方の実験結果の間にはかなりの近似性がある点からして、右報告書の内容は、その主要な部分において新たな証拠資料を提供するものかどうかに疑問がないといえない。そのうえ、右報告書の記載にかかる実験は、本件万年筆の発見されなかつた前の二回にわたる各捜索の目的、規模、方法、実施の重点及びその状況等すべての具体的諸条件に関係なく、専ら鴨居の上の万年筆に関する視覚上の認識の能否に限定されていたものであるから、実際に行われた捜索の場面を考え合わせるならば、その実験結果が直ちに所論を裏づけるまでの証拠価値を有するものとは認めがたい点も否定できない。そして、右実験結果に徴して、前に二回の捜索を実施した捜査官である諏訪部正司、小島朝政及び将田政二の控訴審における各証言により、各捜索の行われたさいの状況について更に検討を加えてみても、故意に右鴨居の上の捜索を避けたような形跡が認められないのは勿論のこと、右鴨居の上なる場所が目につきにくく、見落としやすい箇所であることからして、そこに存在した本件万年筆を発見するにいたらなかつた点について、特に不審を感じさせるような節は見あたらない。かくして、それまで発見できなかつた被害者の所持品である本件万年筆につき、請求人が自発的にその隠匿場所を自供するにいたつた経過を述べている取調官青木一夫、長谷部梅吉及び関源三の控訴審における各証言並びに請求人の第一審における同旨の供述を採証して、請求人の自供によりはじめて本件万年筆が発見された旨の認定をした確定判決の判断は動かしがたいものと認められ、所掲の内田報告書によつてその判断が影響を受けることは考えられない。

前記論旨(七)の点について所論の掲げる謝国権の意見書は、本件被害者に対する姦淫を性科学的に考察した場合、その態様が請求人の自供のとおりであるとすれば、被害者の激しい抵抗のあつたことは必至であり、かつ抵抗は可能であつたと思われるから、その抵抗のもとでいわゆる女性開脚伸展の体位により交合することは不可能と考えられ、さらに、自供のように右手で被害者の頸部を圧迫しながら、左手で陰茎を操作しようとしても、結合前に早漏で終るか勃起不能に陥る可能性が強い旨の意見を述べている。しかしながら、本件姦淫の行われたさい、被害者は、タオルで目隠しをされ、両手を後ろ手に縛られて仰向けにされたうえ、頸部を強く圧迫されていたために、足を少し動かす以外には殆ど抵抗のできない状態であつたことは前に説示したとおりであり、また、請求人の捜査官に対する供述によると、被害者の着用していたズロースは比較的余裕のあるもので、膝付近まで引き下げたまま、両足を広く開かせ、その間に身体を割りこませることができたというのであるから、これらの諸点に照らして、右の意見は、本件の姦淫に特有の具体的状況を看過した観念的論議というほかないもので、本件姦淫に関する自供内容及びこれに基づく確定判決の認定に対して影響を与える反駁の資料とするに値しないものと考えられる。

前記論旨(八)の点について所論の掲げる中山武敏の報告書は、本件被害者の死体の状況から考えて、これを芋穴に隠匿した旨の自供の真実性が疑わしいとする点の立証として提出されたものであつて、狭山市北入曾八三一番地に所在する縦74.5センチメートル、横78.5センチメートル及び深さ三二三センチメートルの芋穴において、合成ゴムで作られ、身長一五四センチメートル及び体重五四キログラムの人形を使用し、これを吊り下げ又は引き上げる実験を行つたところ、繩が足にくいこんで、その痕跡が残り、人形の外面全体に赤土が付着し、人形が穴の底面に到達したときには、明らかにその感触があり、スカートや上衣はめくれて頭の部分に片寄つてしまうために、これらを持つて人形を引き上げることは不可能であり、人形を吊り下げ又は引き上げる操作は自供のように簡単なものではないとの結果がえられた旨を記述している。しかしながら、右報告書の指摘する写真⑨をみても、足にあらわれたという痕跡の状態が明らかでなく、この点について後掲木村康の報告書中⑲からまでの写真及び(5)の記述を参照すると、同じく人形による実験の結果、足首に凹痕や表皮剥離を生じ、着用のソックスに穴があいたとされているが、関係証拠によつてうかがわれるように、実際の場合は、被害者がソックスをはいていたうえに、足首に力が加わつたのは死体を出し入れする短時間に限られ、一方、芋穴の口が狭いために死体を出し入れする作業は静かに行う必要があり、また、請求人が、その自供によれば、セメント二袋を担いで運ぶことができるほどの力の持主であつたこと等本件に即した考察に立つときには、死体の足首に索溝等の痕跡が残らなかつたことも十分納得できるとしている確定判決の判断は、右実験結果によつても動かすべくもないものと考えられる。また、死体が芋穴の底面に到達したときの感触の問題は、これに注意を集中している実験の場合と、現実に殺人を行つた者が犯行直後の興奮、混乱、恐怖等に覆われた精神状態にある場合との相違を考慮に入れるならば、行為後約二か月を経過したのちの行為者の供述において、この点に関する記憶がよみがえつてこなかつたとしても、少しも不自然はないものと考えられ、さらに、スカートを掴んで人体を引き上げることは不可能であるとする点も、これに関連する自供をみると、スカートが破れているとすれば、死体を穴から引き上げるときにスカートを引張つたような気がするので、そのときに破れたものと思うという程度の供述内容であつて、スカートを掴んで引き上げるという行為自体について確実な記憶をもつて叙述しているものとは解されないから、この点を特に取り上げて不合理な供述であるとするのは、当をえた反論とはいえない。また、右実験の場合は人形の外面に赤土が付着したのに、本件死体には赤土が付着していなかつたとする点については、本件死体を見分した大野喜平の実況見分調書中に赤土が死体又はその着衣に付着していた旨の記載がみられないことは所論のとおりであるけれども、土中に埋められていた本件死体がその着衣とともに土にまみれていたのは当然のこととして土の付着の有無について特に記載をしなかつたことも十分考えられるから、その記載がないことをもつて直ちに本件死体に赤土の付着がなかつたとすることはできないばかりでなく、所論が掲記しているように、同人の控訴審における証言では、本件死体の着衣にはねばりつくように泥が強く付着していた部分のあつたことが示されており、同人はこれを地面を引きずつた形跡と認めたことがうかがわれるが、同人は、付着していた泥の土質や死体を引きずつた場所等について所論の指摘するような諸点を十分区別したうえで証言しているものとは思われないので、いずれにしてもこの点の所論は、不確かな前提に立つて右実験結果の意義を主張するもので、採用の限りでない。なお、死体を芋穴に入れる作業の難易については、請求人の昭和三八年七月一日付検察官に対する供述調書によると、繩を両手でしつかりと握り、死体を芋穴の口に入れて、繩を穴の入口の角に密着させ、徐徐に緩めながら死体をおろしていつたので、割合楽におろすことができたというのであり、その供述するところには迎合や無理なこじつけを感じさせる部分がないうえに、前記のように腕力に優れている請求人の動作として十分首肯できるところであつて、結局以上いずれの点をとつてみても、所掲の報告書により本件死体の処置に関する自供の内容に客観的事実と一致しない不合理な点が明らかにされたということはできないので、この報告書も、右自供の内容及びこれに基づく確定判決の認定を左右すべき反対資料となりうるものとは思われない。

同論旨(八)の点について所論の掲げる木村康の報告書は、本件死体を処置した状況に関する請求人の自供内容に基づき人形を用いて実験したところ、腹部、大腿部、下腿部、頭部等の各部位に芋穴の壁面や人口周囲のコンクリートとの接触によつて表皮剥脱等の擦過傷が生じたというもので、これに符合する痕跡が本件死体に認められない点からして、死体を芋穴に入れて隠匿した旨の自供内容の虚偽が裏づけられるとの趣旨で提出されたものと解される。しかしながら、確定判決が判断の根拠のひとつにしている五十嵐勝爾の鑑定書によれば、本件死体には、左側腹部から左鼠径部にかけて及び右大腿部前外側面において多数の線状擦過傷、左前大腿部に多数の細線状表皮剥脱並びに下口唇、頤部及び左右前下腿部に若干の線状擦過傷の認められたことが示されており、同人の控訴審における証言では、これらの創傷は死体が地面に引きずられたさいに生じたものと考えられる旨説明されているが、控訴審判決は、死体を引きずつた覚えがないとの自供に照らして創傷の成因が不明になる旨の論旨に答えて、これらの擦過傷が一面においていずれかの時点で死体を引きずつたさいに生じたものと推認されると同時に、他面において、死体を芋穴に出し入れするさいにこれが芋穴の側壁等に触れて生じた可能性が考えられることを明らかに判示しているのである。したがつて、所論が死体に芋穴の側壁面等との接触痕の存在しないことを前提として自供内容の虚偽をいう論旨は、その前提において失当のものというほかないことになる。

前記論旨(九)の点について所論の掲げる大野町子・中北龍太郎の報告書は、請求人の自供調書に添付されている各図面を調査し、従来確認されている筆圧痕以外の新たに発見された筆圧痕の存在を問題とするものであるが、右は、その記載にみられるとおり弁護人二名の肉眼による見分の結果であつて、しかも、すでに前記所論掲記の荻野晃也の鑑定書に示されているところであり、これを超える資料的意義をもつものとは考えられないから、右鑑定書に対する前説示と同一の理由により、この点に関する確定判決の判断に影響を与えうる反証とはみなされない。

前記論旨(一〇)の点について所論の掲げる串部宏之・北田忠義の意見書は、本件脅迫状中の金員を持参すべき指定日の日付訂正部分を、赤色部における分光特性を強調する検査方法によつて判読したところ、その塗消部分には塗消以前に「4月29日」と記載されていたことが判明したとするものであつて、その提出の趣旨は、昭和三八年四月二八日本件脅迫状を作成準備し、その脅迫状に金員持参の指定日として「4月28日」と記載した旨の請求人の自供が、この意見書によつて真実に反するものであることが示されるとともに、その他の自供内容もすべて捜査官の誘導による虚偽架空のものであることが明らかにされ、また自供によれば、当初の脅迫状の作成日と金員持参の指定日とが同一の日とされている以上、右検査の結果判明した当該日である昭和三八年四月二九日には、請求人は終日工事作業に従事していて、脅迫状を作成する余裕などなかつたことがうかがわれるから、このことから逆に本件脅迫状は請求人が作成したものでないことも証明されることになり、かくして、右自供に基づいて本件脅迫状を請求人の作成にかかるものとした確定判決の判断は、本資料によつて根本から覆えらざるをえないというものである。

そこで、本件脅迫状及び請求人の各自供調書と対比しながら所掲の意見書及びその提出の趣旨について検討してみると、最初本件犯行を全面的に否認していた請求人が、他の共犯者との共同犯行であるとする自供の段階を経て、みずからの単独犯行であることを自白するにいたつたのち、昭和三八年六月二四日付司法警察員に対する供述調書(確定被告事件の訴訟記録二〇六一丁以下に編綴してあるもの)中において、本件脅迫状は同年四月二八日の午後自宅でテレビを見ながら書いたもので、金を届けさせる日時を四月二八日午後一二時としてあつたと思うが、その後、五月一日これを携行して本件犯行に及んださい、被害者を殺害してから、これを取り出し、右金員を持参すべき指定日時のうち、日にちの部分の記載を塗消して、新たに「五月2日」と記入訂正した旨供述し、以来公判審理の過程で再び犯行を否認するにいたるまで、一貫して右の供述内容を維持してきたものであること及び所掲の意見書の示すところにより、右塗消以前本件脅迫状には、金員持参の指定日として「4月29日」と記載されていたことが判明するにいたつて、右の点に関するかぎり請求人の供述内容は誤つており、また、その供述に基づいて当初脅迫状に記載されていた金員持参の指定日が四月二八日であると認定した確定判決の判断が、この部分に関する限度で事実を誤認する結果となつていることは、まさしく所論のとおりであると考えられる。しかしながら、更に右の点について考察を加えてみるのに、問題は、本件犯行のさい塗消された金員持参日の記載が四月二八日とされていたかあるいは同月二九日とされていたかの一点にかかわるものであつて、右請求人の供述中、当初準備していた脅迫状に金員持参の指定日として四月二八日と書いたとある部分を四月二九日と書いた旨読みかえたとしても、その前後にわたる自供内容に格別矛盾が生じたり、不合理な部分が出たりすることは考えられない。所論は、右請求人の供述がたまたま脅迫状を当初準備した日とその記載にかかる金員持参の指定日とが同一の日であつたことをもつて、右両者がつねに同一の日であるべきことを前提とし、その当日が四月二八日ではなくて真実は四月二九日であつたことが判明した以上、昭和三八年四月二九日には、請求人は終日仕事に従事していて、脅迫状などを準備する時間的余裕がなかつたとし、このことから本件脅迫状が請求人の作成にかかる点まで否定しようとするのであるが、本件脅迫状を準備した日にちとそこに記載された金員持参を指定する日にちとが同一の日でなければならない筋合のないことは勿論、その脅迫状の使用による誘拐や脅迫を実行に移すために要する時間の点を考えると、むしろ、請求人の供述のように右両者が同一の日であることの方がかえつて不自然であつて、日にちの違う方が納得しやすいという考え方もできるように思われる。すなわち、請求人の供述するところによれば、昭和三八年四月二九日には、兄と一緒に近所の家の修理仕事に行つて、一日中働いていたというのであるが、その前日である四月二八日に脅迫状による犯行を計画して本件脅迫状を準備し、これに金員持参の日として翌日である四月二九日の日付を記載しておいたところ、当日は四囲の事情から作業に赴き、犯行計画の実行にいたらなかつたという経過であつたとすれば、この間の日にちの前後と請求人の行動とは矛盾なく理解することができることになる。一方で、所論は、四月二八日なる日付が真実に反することが明らかになつた点から、請求人の自供内容のすべてが捜査官の誤つた誘導による虚偽のものであるというのであるが、犯行から二か月近く経過したのちの取調にさいして、過去の犯行に関連する日にちの記憶に一日程度のずれのあることは、往往にしてみられる現象であるうえに、本件の場合は、当初の計画の日取りを変更したために結局塗消されるにいたつた日付の記載に関する問題であるから、なお一層記憶違いの可能性は大きく、かかる事情と、本件については、捜査の過程を通じて、被疑者の自供をうるために強制や威迫が加えられ又は不当な誘導が行われた事跡が全くうかがわれない点を考えると、当初本件脅迫状を準備したさいには、金員持参の指定日として四月二八日と記載しておいた旨の供述部分が、取調官の誤つた誘導に起因するものとは認められず、まして、その余の部分をも含めた自供内容のすべてが捜査官の意のままに誘導された虚偽のものであるとすることはできない。かようにして、本件脅迫状中塗消された日付の記載については、所掲の意見書によつて、この点に関する自供の一部に誤りのあることが明らかにされたが、結局この誤りは供述者である請求人の記憶違いに由来するものであると同時に、その記憶違いは、右事項の範囲に限定されていて、他の自供内容全般にまで影響するところのないものと考えられ、したがつて、右記憶違いによる自供部分を前提にした確定判決における事実の誤認も、本件脅迫状が請求人の作成にかかるものであることその他本件犯行自体に関する判断になんらかの影響を及ぼすものではないから、所掲の意見書によつて、所論のごとく自供の内容及びこれに基づく確定判決の判断が根本から覆えるようなことはありえないものといわなければならない。

叙上により、所論掲記の各資料のうち、形式上一応新たな証拠の性格を有していると認められるものも、いずれもその内容の点において、直接反駁の対象としている各証拠の本質的な証拠価値及びこれらの証拠を総合して形成された確定判決における各論点に対応する判断を動かすに足りるものではなく、右各資料を確定判決前に提出された関係全証拠と総合的に評価し、更にその他所論掲記のすべての資料と合わせて判断しても、確定判決における事実認定につき合理的な疑いを抱かせ、これを覆えすに足りる蓋然性のある証拠とは認められないから、結局刑訴法四三五条六号所定の請求人に無罪を言い渡すべき明らかな証拠に該当せず、したがつて、これらの資料に基づく所論はすべて理由のないものといわざるをえない。

よつて、本件再審の請求は理由がないので、刑訴法四四七条一項によりこれを棄却することとし、主文のとおり決定をする。

(四ツ谷巖 西川潔 杉浦龍二郎)

<別紙弁護人目録省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例